島根大学お宝研究Vol.13
14/47

的なものが完成した段階ですが,西村家所蔵資料の中に,従来知られていなかった極めて貴重なものが含まれていることが確認されました。例えば,右の写真に示す漢文で記された資料は,天囚自筆と見られるものですが,その内容や表現などから判断して,最も早い段階,おそらくは明治43年(1910)1月頃の天囚による懐徳堂研究の原稿で,後の『懐徳堂考』の原稿となったものである可能性が極めて高いと考えられます。但し,西村家所蔵資料には,保存状態が悪いために修復を必要とする資料が少なくなく,写真の資料も全体を釈読するには修復を加える必要があります。今後は,この資料をできれば修復してその全体を釈読した上で,天囚がどのようにして懐徳堂研究を始めていったのかについて,解明を進める予定です。KAITOKUDOwasfoundedasanacademybymerchantsinOsakainthemiddleoftheEdoperiod,However,itwasclosedinthesecondyearoftheMeijiera(1869).About40yearslater,duetouprisingofthemovementtoretrieveKAITOKUDObyNISHIMURATENSHU,KAITOKUDOKINENKAIwasorganized.NISHIMURAwasapioneerinthestudyofKAITOKUDO,"KAITOKUDOKO"writtenbyhimstillhasservedasthebasisforKAITOKUDOstudy.Twoyearsago,manynewdocumentsofNISHIMURAwerediscoveredattheHouseofNishimurainhisBirthplace,NishinoomoteCityofTanegashimaisland,KagoshimaPrefecture.ThepurposeofthisresearchistofindouthowNISHIMURA’sstudyofKAITOKUDOstartedbyusingthisnewdocuments.西村家所蔵資料中の一点(左:表紙,右:本文の一部)◉プロジェクトリーダー 竹田 健二KenjiTakeda(学術研究院教育学系・教育学部担当・教授)A Study on the Acquired Manuscripts Related to NISHIMURA TENSHU10研究者紹介概 要懐徳堂は,江戸時代の中期に,大坂の商人らによって設立された「学校」ですが,明治2年に閉鎖されました。その約40年後,当時大阪朝日新聞に勤務していた西村天囚らを中心に懐徳堂顕彰運動が興り,懐徳堂記念会が設立されます。天囚は,懐徳堂研究に取り組んだ先駆者であり,その著『懐徳堂考』は現在においても,懐徳堂研究に取り組む上での基礎的資料です。2年前,天囚の故郷である鹿児島県種子島西之表市の西村家において,天囚関係の新たな資料が発見されました。本研究は,この新資料を用いて,天囚による懐徳堂研究がどのようにして始められたのか,という問題の解明を目指します。特色・研究成果・今後の展望本研究の最大の特色は,新資料を用いて西村天囚に関する研究に取り組む点です。2018年8月,西村家・西之表市など関係各位の協力のもと,西村家所蔵新資料の調査を行いました。資料の目録はまだ暫定社会的実装への展望本研究により,懐徳堂研究の経緯に関する解明が進むこと,ひいては近代日本における漢学の実態の解明が進むことが期待できます。また,天囚は東京大学文学部古典講習科において,松江出身の瀧川亀太郎とともに学んでおり,西村家所蔵新資料からも瀧川にちなむものが発見されました。本研究は,松江の漢学の伝統に関しても新たな知見をもたらす可能性が期待されます。西村天囚による最初期の懐徳堂研究の草稿についての研究A Study on a draft-manuscript of the earliest study on KAITOKUDO by NISHIMURA TENSHU西村天囚関係新資料の研究

元のページ  ../index.html#14

このブックを見る