第104回島根大学総合博物館市民講座「石見銀山をめぐる戦国争乱の実像」を開催しました。

2018年7月10日

 7月7日(土)、松江市市民活動センターにて、第104回島根大学総合博物館市民講座「石見銀山をめぐる戦国争乱の実像」を開催しました。
 この講座は、平成30年度島根大学総合博物館市民講座第1ステージ「石見学II-世界遺産・石見銀山とその周辺-」 の第2弾です。
 今回の講師は、中世史がご専門の長谷川博史先生(島根大学教育学部教授)で、内容は石見銀山をめぐって繰り広げられた戦国時代の争乱がどのような意味をもっていたのかについて考えるものでした。
 まず、河本郷(現在の川本町)を本拠とし、石見銀山周辺をおさえていた石見小笠原氏の1520年代からの動向について説明がありました。この時期、石見小笠原氏は、出雲尼子氏や周防大内氏にくみしながらも、石見銀山に対する実質的な影響力を強めていきました。
 16世紀後半になると、1551年、周防では、大内氏の家臣だった陶隆房(すえ たかふさ/陶 晴賢)がクーデターをおこし、大内義隆を自害に追い込みます。しかしその後、1555年には毛利元就との厳島合戦で陶隆房自身も自害することになります。こうした動向のなかで、毛利氏は急速に勢力を伸ばしていき、1555~1556年には、石見銀山の山吹城が、毛利方の支配下となります。しかし、1556年になると、出雲の尼子晴久が石見国へ侵攻し、石見銀山を掌握するのです。
 尼子・毛利・大内の三つ巴による、このような複雑な情勢のなかで、石見小笠原氏は、尼子方として、石見銀山周辺を支配していました。しかし、1559年、小笠原氏の本拠地である川本の温湯城(ぬくゆじょう)が毛利元就による攻撃で落城したことから、小笠原氏は毛利氏に従属することになります。毛利氏はさらに石見に侵攻し、1562年、再び尼子氏から石見銀山を奪取します。
 このように、16世紀後半の石見銀山は、地域権力が存亡をかけて奪い合うきわめて重要な場所でした。それは、単に「銀」という富の収奪だけを目的としたものではなかったようです。当時の石見銀山の鉱山町は、16世紀石見の中核をなす巨大都市でした。すなわち、石見の領国支配を実現し、物資の流通を掌握していくために、石見銀山は不可欠な要衝地であったわけです。
 今回の講座では、16世紀の石見銀山周辺の動向について、具体的に詳しく学ぶことができました。会場は満席となり、熱心に聴講しておられました。

 次回は、第105回「石見銀山の開発とグローバル世界の誕生」です(8/4)。引き続き、よろしくお願い致します。 

講座の様子

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