公開日 2023年09月26日
9月23日(土)、第140回アシカル講座「国史跡 久喜銀山遺跡~もうひとつの石見銀山~」を開催しました。この講座は、令和5年度アシカル講座第1ステージ「石見学IV 石見地域の自然・歴史資源を学ぶ」の最終回になります。
今回は、邑南町教育委員会の大野芳典先生から、令和3年10月に国史跡に指定された邑南町・久喜銀山遺跡について解説していただきました。
久喜銀山遺跡は、旧石見国と旧安芸国の国境付近にある、戦国時代から近代にかけての鉱山遺跡で、主に、銀を含んだ鉛鉱石(方鉛鉱など)を産出しました。戦国時代は毛利氏が、江戸時代は幕府が天領として直接支配していました。
主に久喜岩屋鉱脈群・床屋鉱脈群・大林鉱脈群と呼ばれる3つの鉱脈付近において、露頭掘跡、鉱石を加熱する焼竈(やきがま)跡、製錬炉跡、近代の製錬所跡などが遺されています。
このうち、縄手吹所跡という地点からは、発掘調査によって、16世紀後半から17世紀後半頃の製錬炉跡が検出されており、久喜銀山の最盛期とされる戦国時代から江戸時代初期の状況を示す貴重な成果となりました。
世界遺産に認定されている大田市・石見銀山では、銀鉱石をいったん鉛と一緒に溶かした後、銀だけを抽出する「灰吹法」の導入によって、銀の生産量が急増したと考えられています。しかし、石見銀山周辺では鉛を産出する鉱山がほとんど見られず、「灰吹法」で用いられる鉛をどこから調達したのか分かっていませんでした。そこで、石見銀山遺跡から出土したスラグ資料の鉛同位体比分析を行った結果、久喜銀山産出の鉛が使用された可能性があることが分かりました。
江戸時代の石見国絵図を見ると、石見銀山と久喜銀山は街道で結ばれています。この道を通って、久喜銀山から石見銀山に鉛が供給されたのでしょうか。
石見銀山で世界に供給する程の大量の銀が産出された影の立役者として、久喜銀山の鉛の存在はきわめて大きかったのかもしれません。まさに久喜銀山は、「もうひとつの石見銀山」と評価することができると思います。