第158回アシカル講座「セツの語りを体験しよう -語ることと聞くこと」を開催しました。

公開日 2026年02月17日

講座の様子

 2月14日(土)、第158回アシカル講座「セツの語りを体験しよう -語ることと聞くこと」を開催しました。この講座は、島根大学の前身校のひとつである島根県尋常師範学校で英語教師を務めた小泉八雲や妻のセツについて学ぶ3回シリーズ、令和7年度アシカル講座第2ステージ「小泉八雲とセツと松江と」の最終回です。

 今回は、島根県立大学人間文化学部准教授の三成清香先生をお招きし、小泉八雲が何を考えて作品を執筆したのか、それを支えた妻・セツの役割について解説をしていただきました。

 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が来日した1890(明治23)年より以前には、アーネスト・サトウやB.H.チェンバレンをはじめ、すでに多くの外国人が日本に滞在し、活躍していました。いわゆるエリートではない立場として、遅れて来日した八雲は、新しい方法で「日本」という題材に向き合い、『知られぬ日本の面影』『怪談』などの世界的に知られた作品を執筆します。友人のウィリアム・パットンに宛てた手紙のなかで、八雲は、自分が執筆する作品のねらいとして、「読者の心に日本で『生活している』生き生きとした印象を与える」、「単なる観察者ではなく、普通の人々の日常生活に参加し、『彼らの考え方で考える』感じをもってほしい」と述べています。

 1850年、アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれた八雲の半生は、両親と離ればなれで育ち、学歴、財力にも恵まず、さらに16歳で左目を失明するなど、不遇だったようです。エリート街道を歩いた人ではなく、周縁の人物として苦労し、極貧生活のなか欧米を彷徨ったすえに来日した八雲が、日本人や日本社会に向けた眼差しは、それまでの欧米人が日本を見る態度とは異なっていたのでした。

 また、日本語を体系的に学ぶことがなかった八雲が、『怪談』を執筆することができたのは、妻のセツの役割が非常に大きかったようです。セツが、ストーリーテラーとして、八雲に怪談を何度も何度も繰り返して聞かせることで、再話文学としての素晴らしい英語作品が生まれたのでした。八雲は、セツが語る日本語は日本人の友人たちのどんなに上手な英語よりも分かりやすいと言って、いつも喜んでいたようです。

 講座を通して、改めて小泉八雲の創作活動における態度や妻・セツの重要性を理解することができました。

お問合せ先:島根大学総合博物館(TEL:0852-32-6496)