第162回アシカル講座「16世紀の石見銀山」を開催しました。

公開日 2026年09月16日

講座の様子

 9月12日(土)、第162回アシカル講座「16世紀の石見銀山」を開催しました。この講座は、地質学・考古学・歴史学の視点から世界遺産・石見銀山について学ぶ、令和8年度アシカル講座第1ステージ「石見学V ~ 発見499年!世界遺産・石見銀山を学びなおす」の最終回です。

 今回は、長谷川博史 本学学術研究院 教育学系 教授・総合博物館 兼任研究員が、16世紀の石見銀山について解説しました。

 石見銀山は、1527(大永7)年、今から約500年前に、出雲国田儀の三島清右衛門や博多商人・神屋寿禎の代官・小田藤右衛門らによって発見・開発(再開発とも)されたと言われています。1533年には、朝鮮から「灰吹法」という鉛を用いた銀製錬技術が石見銀山に伝わり、銀の生産量が飛躍的に増大します。

 16世紀前半、石見銀山の開発は、但馬生野銀山や佐渡鶴子銀山などに比べて先行していたことから、日本銀のほとんどが石見銀山産だったと考えられています。この時期は、博多と石見の双方を領有していた周防の大内氏の関与のもとで、博多商人・神屋寿禎が石見銀山の開発に活躍したと考えられています。

 おりしも中国大陸の明では、銀で納税する「一条鞭法」が採用されたことにより、銀の需要が増大していました。こうした背景から、多くの中国福建商人などが石見銀山産の銀を求めて日本にやって来るようになったようです。

 16世紀後半になると、主に毛利氏による銀山支配へと移行します。「石見銀山納所高注文」(『毛利家文書』)によれば、1581(天正9)年の石見銀山における年間の納所高(税金)は銀3,652枚とあり、約590kgもあったと考えられています。さらに『吉岡家文書』では、1598(慶長3)年から1601(慶長6)年にかけて、年間に銀2万2000枚から3万枚を毛利氏に納めるよう課したという記述があります。1581(天正9)年の貢納額と比べると桁違いに増大していることから、石見銀山の銀産出量がこの時期に増大していることが伺えます。また、こうした税金は、当時の産出銀の一部にすぎないことから、石見銀山の銀産出量がいかに膨大であったかが分かります。

 16世紀の大航海時代のなか、1557年、ポルトガルがマカオに拠点をもったことから、日本との交易が盛んになりました。近年の調査研究では、九州だけでなく石見国にもポルトガル人が来航していたという記録が見つかっています。こうしたポルトガル商人・中国商人などの活動によって、はっきりとしたことは分かっていませんが、16世紀後半には、日本の銀輸出量が20~40tを上回っていたという研究もあるようです。

 以上のような、莫大な量の石見銀山産をはじめとした日本銀の海外への流通は、グローバル経済や近代世界システムの形成といった、世界史を動かす程の原動力になったといえます。講演を聴き、石見銀山が、人類の歴史に大きな爪跡を残した、世界遺産として重要な価値を有する遺跡であることが改めて理解できました。

 来年は、石見銀山発見500年、世界遺産登録20年の節目の年となります。ぜひ現地へ足を運び、石見銀山の価値を学んでいただけると幸いです。

 令和8年度アシカル講座第1ステージ「石見学V ~ 発見499年!世界遺産・石見銀山を学びなおす」は、今回で終了しました。今年度後半は、アシカル講座第2ステージを企画中です。引き続き、よろしくお願い致します。

【お問合せ先】島根大学総合博物館 TEL 0852-32-6496